第47話 強みを見極め差別化戦略に | 佐藤政大 公式サイト

経営改善のために着手したことがもう一つあります。それが「スタッフと生徒さんとの信頼関係の強化」です。
スクールとしてのVsignの最大の強みは、コーチである僕、佐藤政大が「栃木県ナンバーワンのテニスプレーヤー」であるということでした。しかし僕一人では、指導できる生徒数にも限界があります。
もっと経営を安定させるには、僕以外のスタッフたちにもレッスンを担当してもらうことは不可欠でした。
そこでまず僕はレッスン内で、スタッフをコーチとして参加させることにしました。そこで生徒さんたちに、スタッフたち力量の高さを指導を通じて実際に感じてもらえれば、僕がいないときでも安心してレッスンを受けてもらえるはず、と考えたからです。
この作戦は予想以上の効果がありました。それまで「僕でなくてはダメ」だった生徒さんたちが、スタッフたちを一人前のコーチとして認めてれるようになったことです。中には僕よりも若手スタッフの指導を希望する生徒さんまで出てきたほどでしたから、僕は自分の生徒さんをスタッフへ引き継ぐと同時に、スタッフ担当のレッスン数も増やしていきました。

その一方で、テニス経験者は「強いコーチに指導してもらいたい」と考える傾向があります。そのため、僕のレッスンを引き続き受けたいという生徒さんも少なくありませんでした。とはいえ僕が担当できる時間には限りがあります。それに経営面から考えるとレッスンのコマ数をもっと増やす必要があり、そのためにはスタッフが担当するレッスン数の増加が鍵になります。

当時、地元のテニス愛好家の間では「Vsign(でレッスンを受けるの)は敷居が高い」と印象も持たれていたこともあり、初級・中級の取り込みは必須でしたので、ここで思い切って初級・中級者を対象としたクラスの開設に踏み切りました。実際に始めてみると思った以上に反響があり、結構な数の生徒数が集ったのです。

このようなことが重なり、レッスン数も日を追うごとに増えていきました。ぎりぎりだった収支が徐々に黒字へと転じていきました。開校直後は今日を生きるのが必死でしたが、いくらか気持ちに幾分余裕が出てきたせいか、これからのことについても考えられるようになりました。

そうして未来を見据えて取り組んだのが、これから入社するスタッフに指導のノウハウを引き継ぐ「マニュアルづくり」です。目的は、誰が教えても佐藤政大の指導理論に即した水準でレッスンが行えるようになること。マニュアルには僕の指導理論だけでなく、アスレティックトレーナーである吉村君、そして先進的な指導を長年実践してきた父の力を借り、スポーツ科学や運動学も取り入れました。

Vsignのノウハウの集大成ともいえるこのマニュアルは、その後の指導面で大いに役立ったのは言うまでもありません。

今ではサトウグリーンテニスクラブの大切な財産となっています。実はこのマニュアルに完成形はありません。テニスの進化や研究に合わせて指導内容を現在進行形で日々アップデートしているためです。

ビジネス的に言えば、それまで属人的だった業務のフローを整え、設定したルールに沿って全従業員が同じ成果を出すことで、組織全体の業務品質の向上を目指す「業務標準化マニュアル」を作成し、PDCAサイクルの中でより効率の良いフローにアップデートしていくイメージです。

この頃、会社の運営面で僕を支えてくれたのがKさんでした。法人化する前から長い付き合いのあるスタッフです。Kさんは「あなたがいなくても大丈夫なようにしなくては」と、常々口を酸っぱくして繰り返していました。都内の大手企業で働いていた経験を持つKさんは、組織マネジメントについても詳しく、社会人経験のない僕にとって頼りになる存在でした。スクールが抱える課題に対し、上司である僕に対しても臆することなく、建設的な意見や改善策を提案を提案してくれました。

時には真剣さのあまり喧嘩になることもありましたが、互いに本音でぶつかり合える彼女は僕の一番の応援者であり、また先導役でもありました。

「右腕をまかせる人材は、イエスマンであってはならない」と言いますが、

彼女を見ていると本当にその通りだと思います。企業にとって人材育成は重要な経営課題の一つですが、中でも社長にとって切実なのは、単なる“イエスマン”ではなく、必要とあれば経営者にも率直に意見できる身近な相談相手、つまり“名参謀”として社長を支える人材かもしれません。

考えてみればKさんは、それまでずっとテニスプレーヤーとしての僕を応援してくれていた方でした。「国体選手」や「栃木ナンバーワン」の称号を失うのが怖くて、目標もないまま現役選手を続け、試合に出ても中途半端な成績ばかりで燻(くすぶ)っていた時、Kさんは「それでも、栃木ナンバーワンってすごいことなんだよ」と言って、いつも励ましてくれました。

この「国体選手」や「栃木ナンバーワン」というステータスを、僕は営業的に全く活用できていなかったですが、それがとても価値のある経営資源であることを教えてくれたのが、Kさんでした。それこそが、「栃木県1位のコーチ陣が教えるテニススクール」という差別化戦略でした。

その戦略が功を奏したことは先ほど書きましたが、僕だけでなくコーチスタッフにも「栃木県1位」になってもらうことで、この戦略をより有効化できるというのが、Kさんの考えでした。「僕以外のスタッフが“栃木県1位”の肩書きを獲得するには、どうすれば良いだろう?」。そう考えてKさんと一緒に打ち立てたのが、コーチスタッフと僕がペアを組んでダブルスに出場するという作戦でした。それぞれのコーチスタッフの実力は申し分ありませんが、シングルスで「栃木県1位」を勝ち取るのはまだ難しい。

しかし僕とペアを組めば、その座を十分に狙えるはずです。
そこで僕とコーチスタッフ3人は、栃木県選などの大会に出場を重ねました。
僕はダブルスパートナーの強みを引き出せるよう、プレイスタイルを柔軟に変化させることを得意としていましたので、この作戦はピタリとはまりました。
杉山君、吉村君とは男子ダブルスで、松谷さんとはミックスダブルスでそれぞれ優勝を果たし、晴れて名実ともに「栃木県1位のコーチ陣が教えるテニススクール」となったのでした。

僕たちはさっそく「栃木県1位のコーチ陣が教えるテニススクール」をキャッチコピーにしたチラシを作成しました。すると予想以上に大反響で、上級者・初心者ともに生徒数が大幅に増加。経営基盤の安定まであと一歩のところまでたどり着きました。

また、コーチ全員が日本体育協会(現・日本スポーツ協会)公認のコーチ資格も取得。さらに現役選手としてもテニスの技に磨きをかけ、中でも杉山コーチは栃木県選抜テニス選手権シングルスで優勝を勝ち取り、その後さらに3連覇も成し遂げたのでした。

これらの実績が他のスクールと明確な差別化につながったことで、2010年の秋頃にはようやく経営も安定基調に乗り始めていったのですが……。

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