新しく移転先を見つけ、なんとか危機を乗り越えた父のスクールに対し、僕は順調そのものでした。Tスポーツクラブでの生徒が増え、収入も大幅に増加しました。仕事の大半は、Tスポーツでの「インドアテニス倶楽部」レッスンが占めるようになっていました。
僕の教え子で高校3年生の杉山彰(あきら)君から、「高校卒業後は、僕もテニスコーチとして一緒に働きたい」との相談を受けまたのは、ちょうどその頃でした。
彼には大学進学という選択肢もあるし、親御さんの意向もあるでしょう。僕も突然の申し入れだったこともあり、即答ができません。
僕は「君の大切な将来を決めるのだから、まずは自分の本当の気持ちをしっかりと見つめること。それからご両親と良く話し合うこと。その上で本当にテニスコーチになりたいという結論が出たなら、一緒にやっていけるか考えよう」と彼に伝えました。
とは言ったものの、杉山君が本当にコーチへの道を選んだとしても、彼の給料を保証することはできません。テニスコーチの収入は不安定なものですし、新人のテニスコーチにレッスン枠を割り当ててもらえるかも不明です。仮に割り当ててもらえたとしても、翌年にはどうなるかわかりません。僕の収入から彼に給与を払うにしても、将来までは保証できません。
ただひとつだけ、希望もありました。「杉山君なら必ず生徒さんが集まるに違いない」という強い確信です。それまで彼を指導してきた中で、テニスの技術はもちろん、誠実さや情熱、人との接し方などを見てきましたから、コーチとしての資質は申し分ないことは明白でした。指導力の面でも人柄の面でも、彼ならばきっと多くの「ファン」に恵まれるはずです。
それから数日後、杉山君とお父さんが僕のもとに訪ねてきました。家族みんなで話し合い、「テニスコーチになりたい」という彼の意志を尊重するという結論に至ったのだそうです。その結論を聞いて、僕も彼をテニスコーチとして受け入れることを決意しました。するとお父さんは、「彰をよろしくお願いします」と頭をさげられました。そのお父さんの気持ちに、僕も胸を打たれました。彼をコーチとして預かるからには、お父さんにも安心してもらいたい。僕にはその責任がある。そう、強く感じたのです。
彼をコーチにするということは、すなわち従業員を雇用するということです。
それまでフリーランスとしてTスポーツクラブと契約していた僕は、社会的にも不安定な立場でしたが、そんな僕が従業員を雇っていたのでは、本人はもちろん家族にも安心してもらうことは難しいでしょう。
そこで僕が選んだのが、テニス指導を事業目的とした法人の設立でした。自らのテニス技術だけを武器に、出たとこ勝負で生きてきた僕にとってはかなり大きな決断でしたが、いずれ会社を起こすべきであることは、すでに決めていた目標でもあったのです。サトウテニスクラブ時代からの教え子で、Tスポーツクラブでもレッスン管理やイベントの準備、会報誌の発行などを手伝ってくれていたKさんと「将来的には法人を設立を目指そう」と、以前から夢を語り合っていたのです。
そうは言っても、人はついつい現状維持を選んでしまうもの。一歩踏み出すということは、リスクを引き受けることでもあるので、「それまでの僕はいずれ法人化しなくては……」とは思いながらも、なかなか具体的な行動を起こせずにいたのです。目指すべき方向を決めていたとしても、安定した状態から勇気を出して踏み出すには、何らかの切っ掛けが必要です。僕にとってその大きな弾みとなったのが、杉山君の「僕と一緒に働きたい」という気持ちでした。彼の夢が背中を押してくれたことで、ついに僕たちは法人化に向けて動き出しました。
2005年2月2日。僕は「有限会社Vsign」を設立しました。32歳の時です。
会社の名前に特別な意味はありません。設立をサポートしてくれた税理士さんが「社名を決めてください」というので、英和辞書をパラパラとめくりながら、当てずっぽうに指差したところに記載されていたのが「Vsign」という単語だったのです。
ちょうど商号のローマ字表記が認められたタイミングだったため、このままの英文で登記をすることができました。ただ、社名に何の意味がないのも体裁が良くないので、Kさんや杉山君と一緒に、英和辞書と格闘しながら、「V・s・i・g・n」の1文字ずつに、相応(ふさわ)しい意味を持つ単語を探すことにしたのです。そうやって見つけたのが、Variety・sports・idea・global・networkという5つの言葉でした。後付けではありますが、Vsignという単語に「いろいろな、スポーツを、アイデアで、世界に、つなぐ」という想いを込めることができたので、今でも良い社名だと満足しています。
ちなみに先述のKさんは、後に僕の右腕として会社経営をサポートしてくれる、大切な存在になっていきます。
法人の設立により、それまでTスポーツクラブから僕の個人口座に振り込まれていたレッスン委託料が、この「有限会社Vsign」への入金に変更されました。コーチやスタッフが増えたことで、担当できるレッスン数も増えました。それだけでなく、生徒さんたちへの細かなサービスもより行き届くようになりました。それが、生徒さんからも一層の評価につながり、その効果でさらに新規のレッスン生も増えるなど、会社設立によるメリットは想像以上のものでした。
新会社に入る委託料も生徒数の増加に応じてアップし、心配していた従業員への給料も滞りなく支払えるようになっていきました。僕にとって、「法人化」は大きなチャレンジではありましたが、やはり攻めの姿勢で挑んで正解でした。無謀な挑戦は慎むべきですが、実力ある仲間の支えのもと、一歩踏み出せば手が届く目標があるなら、必要以上に不安にならず実践してみるべき価値はあります。それ以来、僕たちは常に挑戦し続ける姿勢を「現状維持」しています。