第35話 うぬぼれから泥沼にはまる | 佐藤政大 公式サイト

あれはちょうど、免許を取得してしばらく経ち、運転にも慣れ始めてきた頃。宇都宮の西隣にある鹿沼市のコートに向かう途中のことです。

鹿沼市主催のテニス講習会を卒業した人たちが立ち上げたサークルがあり、その日はそこでのレッスンコーチとして指導に向かっていました。僕はいつも通り、時間の掛かる主要道を避け、田園地帯を抜ける裏道を通りコートに向かっていました。おそらく大昔から存在していたであろう旧街道で、センターラインはあるものの、かろうじて大型車同士がすれ違える程度の道幅です。しかも古い道をそのままトレースしているため、道筋は見通しの悪いカーブだらけ。

冷静になって考えれば、初心者マークの僕には向いていない道です。けれど当時の僕は「卒検一発合格」を決めた運転技術を過信しており、結構なスピードで“ふじ子ちゃんの白いスターレット”を走らせていました。

S字カーブの右コーナーに差し掛かった時です。突如として対向車線を爆走する大型ダンプの姿が僕の視界に現れました。「あ、危ない!」と心の中で警報が鳴り響きます。なんとそのダンプカーはカーブを曲がりきれず、こちらの車線に思い切りはみ出しているではないですか。

「このままじゃぶつかる!」。そう思った僕は、とっさにステアリングを左に切り、コーナーの外側に走行ラインを変更しました。なんとかダンプを回避できましたが、残念なことに初心者の僕は、クルマの挙動や車両感覚をきちんと把握できていません。、元の車線に戻ろうと、今度は逆方向に急ハンドルを切ったところ、クルマは言うことを聞かずにコースアウトして行きます。僕はなすすべもなく、ただただ運転席で固まるしかありませんでした。

まるでスローモーションのように、事態はじわりじわりと展開し、やがてスターレットは路肩から空中へと飛び出していきました。フロントウインドウから見える景色はもはや道ではなく、水をたたえた長閑(のどか)な水田です。ゆっくりと落ちて行くクルマの中で、僕は衝撃に備え身構えます。

……ポチャン。あれ!?。
泥の中に落ちたため、思ったほどの衝撃はなく、体も無傷のようです。動転した僕は慌ててドアを開け、クルマから飛び出しました。そして事故の原因となったダンプへ向かって振り返ったのです。が、しかし……。そこには何事もなかったかのように、彼方へ走り去って行くダンプの後ろ姿が。僕は急いで追い掛けようとしますが、田んぼの泥に足を取られて歩くのがやっと。いえ、例えは走れたとしても、ダンプに追いつくのは無理な話なのですが、その時は気が動転していて正しい判断ができないのです。

そんな僕の焦りとは裏腹に、カーブの先へとダンプは走り去って行きました。視界から完全にその姿が消えると、ようやく僕は我に返って冷静さを取り戻します。「ああ、そうだ。生徒さん達が僕を待っているんだ。こうしている場合じゃない」。

とはいえ、今のように携帯電話などない時代です。田舎道なので、公衆電話もありません。いえ、仮にもし電話があったとしても、テニスコートにも電話がありませんから、生徒さん達に連絡する手段はないのです。残された伝達手段は唯一つ、一刻も早くここから抜け出して、僕自身がコートへ向かうことだけです。

あらためて状況を確認してみると、まさに不幸中の幸いとはこのことを言うのでしょう。まずクルマですが、ひっくり返ることなく走行時と同じ姿勢で着地しています。そして地面は柔らかい田んぼですから、クルマへのダメージもなさそうです。試しにイグニッションキーを捻ってみると、問題なくエンジンも掛かりました。何とか泥の中から脱出できさえすれば、そのまますぐに走り出せそうです。「さて、どうしようか……」。

勉強は苦手ですが、頭をひねって考えるとすぐに答えが見つかりました。なんと道路の向こう側に、重機が並ぶ建設会社があるではないですか。ここまで不幸中の幸いが重なると、逆に幸運に恵まれているように錯覚してしまいそうです。これはきっと天国の母が、「今回は助けてあげるけど、自分の運転技術を過信せず、安全運転を心掛けなさい」と教訓を与えてくれたに違いありません。僕は心の中で母に手を合わせながら、向かい側の会社に出向いて事情を説明しました。するとありがたいことに、快く僕の頼みを引き受けてくれて、従業員の方がクレーン車でスターレットを引き上げてくれました。さすがプロ、あっという間に作業完了です。

真っ白だったスターレットは泥で汚れてしまいましたが、思った通り走行には支障はなさそうです。僕は会社の皆さんに何度も感謝の言葉を伝え、先を急ぐことにしました。コートで僕を待つ生徒さん達が困っているかもしれません。時計を見ると、既に約束の時間は過ぎていますが、とにかくコートに向かいます。もちろん急いでいるとはいえ、今度は慎重運転です。

結局コートには当初の予定より1時間ほど遅れて到着することができました。みんなは怒るどころか、急いで現れた僕の泥だらけになったの姿を見て「大丈夫ですか?、何があったんですか?」と心配そうに声を掛けてくれました。まずは遅刻してしまったことを丁寧に詫び、それから事の顛末を説明します。すると生徒さん達は口々に「大変でしたね。とにかく体が無事で良かった」と慰めれくれるではありませんか。
その言葉を聞いて僕はすっかり落ち着きを取り戻すことができました。そして「大事(おおごと)にもならず、遅れはしたけどレッスンもすっぽかさずに済んだ」との想いが込み上げ、安堵した気持ちから全身の力が抜けていったのです。

今となっては笑い話ですが、それでも思い返すたび、文字通り「泥沼にはまった」あの時の、心臓を圧し潰すような焦燥感が、昨日のことのように蘇ってきます。

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