第34話 卒業はしたものの | 佐藤政大 公式サイト

無事に高校を卒業はしたとはいえ、僕にとっての今後の進路はおろか、次の日の予定さえ決まっていない状態でした。

実は進路を決める大事な時期で高校3年の秋、僕には複数のテニス強豪大学から推薦入学の声をかけられており、その中には東京六大学にも数えられる名門私学も含まれていました。インターハイ3年連続出場の成績を収めていたため、推薦入学の資格を得るのに充分な実力があったと評価されていたのです。しかし学費無料で受け入れてもらえるほど、優秀な選手ではありませんでした。それ故この時もまた、僕の前には「お金の問題」が立ちはだかりました。

というのも折悪く、ちょうど僕が進学を決めるその時期に、父が肺の病気を患ってしまったのです。かつて医療機器販売に携わっていた父には医者の知り合いも多く、病気に関する知識もあります。その父が自らの症状から判断し、僕に投げかけたのが「俺は肺がんかもしれないから、大学に行かせてやることはできない。もし本当に肺がんだったら、申し訳ないが進学はあきらめてくれ」と言う言葉でした。

僕は僕で、「多くの学校から推薦入学の声がかかるのはうれしい。けど、テニス選手とはいえ僕もそれなりに勉強ができると大学関係者は思ってるに違いない。でもホント、僕は勉強できないから。推薦だって入試テストは受けなきゃならない。でも僕の学力では受かりっこないし、仮に受かったとしても大学の授業についていくなんて絶対に無理」と感じていました。
そこで父の病気を理由に、進学の道に見切りをつけることにしたのです。

その一方で担任の教師からは、「進学するのか、就職するのか、きちんと決めてくれ」と迫られていました。進学率や就職率のパーセンテージが下がると、学校のイメージダウンになるらしいのです。僕は自分たちの都合ばかりを優先する教師を相手にするのが面倒になってしまい、「じゃあ、卒業したらそのまま父のテニススクールで働きます」とに伝えました。とりあえず、家業の手伝いをするということにして、その場を収めたのです。

もちろん、簡単に決めた訳ではありません。僕なりに深く考えた結果、「テニスの道で生きていく」ことを決意したのです。基本的に、僕は会社などの組織で働くのは向いていない、と自覚していました。組織と言う権力構造の中では、例え理不尽な指示であっても、意義を唱えずに従わうことが求められますが、僕にはどうしてもそれができなかったのです。それはきっと、父や教師から力づくで押さえつけられてきたことへの反発心が、抑えられる限界点を超えてしまっていたからに違いありません。

とにかく「強制的に命令される」と、強いアレルギー反応を起こしてしまうのです。それはヒリヒリと痛む心の傷口のようなもので、ちょっと触れられただけでも耐えられらなくなり、「怒り」や「投げ出し」といったその拒否反応を引き起こしてしまうのです。組織の一員としての資質に欠けていると気づいた僕は、どこかに就職するなんてできないと思ったのです。

それに何より、僕は本当に勉強ができませんでした。というよりも、勉強をしなかったと言う方が正しいかもしれません。父が自分を押さえつけることへの反発から、勉強をしなくなったのです。母が元気な頃は素直に勉強していたので、僕の成績はそこそこだったのですが、父と間に入ってくれた母が他界して、父とダイレクトにかかわり合いを持つようになると、その高圧的な指導に強く反抗するようになったのです。そして僕は厳しすぎる父への当て付けとして、中学に入る頃には勉強を一切やめてしまいました。

勉強をしなくなると当然成績も下がります。授業にもついていく行けなくなるため、学校へ行っても面白くありません。いつも不貞腐れる僕に対し、今度は学校でも教師から厳しい叱責を受けるようになり、心が八方ふさがりなった僕はますます勉強をしなくなったのです。

中学・高校時代、僕がラブレターを書く目的以外でペンを握ったのは、テストの時のみでした。それも勉強のためではなく、カンニングのためです。本当はそれさえしたくなかったのですが、テストで合格点を取らないと進級できないため仕方なくペンを手にし、カンニングペーパーを作ったのです。僕にとっては勉強とはカンニングと同義語だったのです。

あの頃の僕は意味のないちっぽけなプライドに捕われており、自分の頭の悪さを素直にさらけ出すことを極端に嫌っていました。しかしそんな僕にも、ひと様から唯一褒めてもらえるものがありました。それが「テニス」です。だから僕はテニスだけは一生懸命頑張りました。テニスで強くなることは、バカな自分を隠すための手段でもありました。そんな少年時代を送ってきた僕にとって、組織に所属する必要もなく、勉強する必要もなかったのです。ただ純粋に「自分の能力を活かせる職場」がテニスであり、この道を選んだのは、当然の結果だったのです。

そんな訳で、卒業と同時に父のスクールが僕の職場となりました。とは言っても、高校時代から手伝いはしていたので、僕の生活には大きな変化はありませんでした。卒業しても就職しなかった僕は、端(はた)からはプーターローのように見えていたかもしれません。父は「家に住ませてやるからその分働け」という考えを持っており、初めの頃は無給で手伝っていましたので、ある意味で“無職”でもありした。

それでは何だか、いつまでも父のスネをかじっているようで、我ながら情けなくもありました。就職した友人達はすでに自分で稼ぎ始めているのに、僕ときたらこの有り様です。それに主な交通手段は未だ自転車でした。大人の仲間入りをした年齢でのチャリンコ生活は、結構キツいものがありました。何しろ社会人になった同級生は、ローンを組んで自分のクルマを購入していたのですから。しかし僕には、クルマどころか、教習所に通うお金すらありませんでした。

しばらくすると、父の病気の検査結果が出ました。あれほど「肺がんだ」と騒いでいたのに、調べてみたら結核だと判明したのです。心配して損しましたが、父は精神的にも経済的に安心したのでしょう、「お前が大学に行かなかった分、生活の面倒は見てやるから安心しろ」と急にものわかりの良いことを言うではありませんか。おかげで幾ばくかの報酬をもらえるようになった僕は、自分で稼いだ小遣い程度のお金で、自動車教習所に通うことにしたのです。

宇都宮のような地方都市で一人前に働くには、まずは自動車免許が必須です。僕はゴールデンウィークが明けるのを待って、近くの教習所に入学しました。新卒生で混み合う春先を避け、定員に余裕ができるタイミングだからです。5月20日に入学し、それから毎朝5時に起きては、ふじ子ちゃんのスターレットを貸してもらい、閉鎖されたスクールの敷地内で、車庫入れや縦列駐車などの自主トレーニングを行いました。そして朝一番に教習所に直行し、学科・実技とも規定いっぱいのレッスン数を毎日受講しました。苦手なカリキュラムも、日々の努力の甲斐あって順調に進みました。
自信があった実技は完璧で、卒検は一発合格。勉強はできないのに、こういうことだけは得意なんです。そして1か月半後の7月4日には無事に教習所を卒業できました。当時としてはかなり短期間でのコース修了だったと思います。

免許を取得してからは、父の先輩で、テニスコーチでもある生井さんに、Tスポーツクラブの仕事を紹介してもらうなど、働き口も徐々に増えていきました。Tスポーツクラブは、宇都宮市内にある施設ですが、自宅から10kmほど離れており、自転車で通うには無理がありました。しかしクルマあれば大丈夫だからと、Tスポーツクラブの担当者と引き合わせてくれたのです。

市町村主催のテニス教室にも、コーチを受け持つ父のアシスタントとして参加しました。自治体のテニス教室は10回コースが多く、最終回をもって打ち切りになってしまうのですが、せっかくテニスの楽しさを知った参加者たちが、自主的にサークルを立ち上げて、その後もテニスを続けることが多々ありました。
その場合、僕が専属の指導者として依頼を受け、自治体のコートを借りて定期的に練習会を開くのですが、徐々にこれらのケースも増えていきました。中には僕が18歳の時に生徒になって以来、今でもサトウグリーンテニスクラブに所属し続けてくれている会員さんもいるほどです。
その方は僕より世代が少し上だったこともあり、練習会後はいつもコート近くのレストランに僕を連れて行ってくれて、好きなものをお腹いっぱい食べさせてくれました。また、成人式の時には僕にスーツを仕立ててくれたり、まるで家族のように僕を大切にしてくれたのです。
相変わらず年長者からの愛に飢えていた僕にとって、その生徒さんとの出会いはとても心温まるものでした。このようにテニスサークルなどから依頼を受け、使用しているコートに出向いて講習するスタイルは、今の僕のスクールでも実施している「派遣コーチ」というビジネスへと発展していくのですが、その時はまだ知る由(よし)もありません。

こうやって仕事が増えるに連れ、寂しかった懐具合も少しずつ温まっていきました。この「自分で稼いだ大切なお金」を何に使ったかというと、もちろん大好きなゲーム!ではなく、国内ランキングを獲得するための大会出場に充てました。まだ18歳でしたから、コーチとして働くだけでは満足できず、やはり現役のプレイヤーとしてより上を目指したかったのです。

なんていうとカッコいいですが、実はそれほど強い意志を持ってランキングに挑んだ訳ではありません。高校を卒業し、自由と引き換えに唐突に拠り所のない立場に身を置くことになった僕は、何をしていいのかわかりませんでした。
ただそれまでの惰性で、何となく「テニスで上を目指そう」と思ったのが正直なところです。ある程度の成績を残せる自信はありましたが、「何が何でも国内上位に入ってみせる」ほどの熱意は持っていませんでした。

現実もそうは甘くなく、ランキングポイントが付与される大会で、僕のようなランク外の選手が参加できる大会は年に4タイトルしかありませんでした。それ以外の大会は、ランク上位の選手から順に出場権を得られる仕組みとなっていたからです。

とりあえず僕はこの4大会に目標を絞り込み、昼は練習とコーチの仕事、夜はゲーム(やっぱり止められません)というローテーションを組み、テニスに軸足を置いたハードな毎日を過ごしてくことになったのでした……。

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