小学4年生の3学期に亡くなるまで母と過ごした日々は、僕にとってかけがえのない大切な宝物です。
父がテニススクールを始めたことで経済的な余裕がなくなった佐藤家でしたが、まだまだ僕たちは子供でしたから、我が家が「貧乏になった」と感じることはほとんどありませんでした。けれど唯一そのことを端的に実感できたのが、晩ご飯の献立の変化でした。
イワシやサンマなどの大衆的な魚が旬を迎えると、1週間を通して同じ魚が食卓に並ぶようになったのです。それでも料理上手だった母は、焼き魚や煮魚、フライや南蛮漬けなど、僕たち家族のために工夫を重ね、毎日異なるメニューで腕を振るってくれました。
育ち盛りですから、僕も妹も本当は肉料理が食べたかったのですが、「母が家族の健康と家計のやり繰りを一生懸命に考え、頑張ってくれている」と子供ながらに感じ取っていたのでしょう。「魚料理はもう嫌」という気持ちは湧かず、不思議とほのぼのとした幸福感を感じていました。あの1週間連続の魚料理は、今でも忘れられない、家族の思い出となっています。
寒い季節ともなると、毎日のように食卓を賑わしたのが鍋料理でした。これも、同じ食材をおいしく食べるための工夫の一つです。
当時はIHヒーターが普及しておらず、佐藤家ではテーブル上でニクロム線式の電熱コンロを使って鍋を調理していました。現在の卓上型コンロは安全対策としてコードと本体がマグネットによる着脱式になっていますが、当時のコンロは一体式になっていました。
佐藤家では、そのコードが床から浮いた状態でコンセントへと繋がっており、いつも足を引っかけないよう注意する必要がありました。けれども、当時の僕はまさに腕白(わんぱく)まっさかり。「空中に浮いたコードを飛び越えたいという衝動」というか、「越えられる自信」というか…。
いつもそういった気持ちが心の中にあり、ダメだとわかっているのに抑えきれず、ついついやってしまうのです。
そしてある晩、案の定僕はコードに足を引っかけてしまいます。電気コンロが横に吹っ飛び、熱く煮えたぎった鍋の中身が僕の足に掛かりました。それを見るやいなや、気の短い父が激しくどやしつけます。ひどい火傷(やけど)を負った足が熱くて痛くてたまらないのに、父はそんなことは一向に介しません。見かねた母が「そんなに怒らなくても……」と止めに入ってくれたから良かったものの、僕の右足には今もその時の火傷の傷跡がしっかりと残っています。
母との思い出の中でも、強く印象に強く残っているのが、「プリンアラモード」です。小学校4年生頃になると、僕はジュニアテニスのランキングを獲得するため、東京近郊で行われるツアーを転戦するようになっていました。当時、父はスクールで忙しく、大抵の場合は母と2人で電車に乗ってツアーに参加していました。
試合が終了するといつも、母は新宿の京王百貨店や小田急百貨店の喫茶室に立ち寄り、僕の大好物を食べさせてくれました。それが、プリンアラモードです。普段食べ馴れているカップ入りのプリンとは似て非なるもので、卵の味わいが濃くてプルプルしっとりのプリンに、アイスや生クリーム、うさぎ型のリンゴ、缶詰のミカンやチェリーなどが載った贅沢な一品でした。今では懐かしい昭和のレトロスイーツですが、田舎育ちの昭和の少年にとっては、その耳慣れない響きからして、都会の風を感じさせてくれる“大人のデザート”。ひと口食べる度に、僕はその魅力にうっとりと心を奪われてしまうのでした。
試合が終わった後というのは、つまりトーナメントで負けた後です。家に戻れば必ず父に怒られるので気分が滅入ってしまうのですが、そんな僕の落ち込んだ心にそっと寄り添ってくれたのが、母の優しさと、甘いプリンアラモードだったのです。
今思えば、当時はそのような贅沢なものを食べるお金をどこから捻出したのか不思議なのですが、母と一緒の僕は安心しきっていましたから、そんなことは気にも留めず、ただひたすら一心不乱にその魅惑的な一皿を貪るように味わっていたのです。恐らく、僕の試合ついでに東京の実家に立ち寄り、祖父母に無心していたのかもしれません。いやひょっとすると、それが上京の本当の目的だったようにも思えます。そうやって懐に少し余裕ができた帰りだったからこそ、母が生まれ育った東京で、僕と一緒にプリンアラモードを食べていたのでしょう。それは、母にとってほんの束の間の、それでいて掛け替えのない癒やしのひと時だったに違いありません。
最近ではその名を聞くこともあまりなくなってしまった「プリンアラモード」ですが、昔ながらの洋食店やレトロな喫茶店などを見かけると、思い出の味を求めて、ついついその扉を開けてしまいます。最近のプリンとは異なる、昔ながらの素朴で優しい味に出会うことは稀ですが、それでも時おり、“あの頃のまま”のプリンアラモードに巡り会えることがあります。そんな懐かしい味わいを口にできた時、僕は一瞬にして、母と過ごした昭和50年代にタイムスリップしてしまうのです。