あと1ポイント取れば優勝だ。しかし佐藤政大の身体はどうにも動かない。
2015年10月1日、愛知県名古屋市の東山公園テニスセンターの室内コート。第77回全日本ベテランテニス選手権40歳以上男子シングルスの決勝戦は大詰めを迎えていた。第1セットは佐藤が7-5で先取。続く第2セットは2-6で対戦相手の細川敬介が取った。ファイナルセットは6対6のタイブレークに縺(もつ)れ込むという一進一退の攻防。追いついては突き放され、突き放しては追いつかれるという息が詰まるような展開に、会場は重苦しい閉塞感に包まれていた。
この時、佐藤の肋骨にはヒビが入っていた。第1セットの後半、自らのサーブの衝撃による疲労骨折だった。しかし佐藤は、この事実を知らぬまま試合を続けていたのだ。インパクトの度に激しい衝撃が全身に響く。呼吸することすら、やっとの状態。何とか打撃のできるフォームを探りながらゲームをここまで維持してきたが、佐藤の体はもう限界に近ずいていた。
前日は4時間に及ぶシングルスの準決勝、さらには3時間ものダブルスの試合に出場。その中で股関節を痛めていた上に、連戦による疲労も極限に達していた。
「もうだめかもしれない…。」認めたくはなかったが、心の内側から諦めにも似た気持ちが湧き上がってくるのを、佐藤は感じていた。
その時だった。誰もいないはずのコートの上で、誰かがそっと彼の背中を押した。「大丈夫、自分を信じて!」その瞬間、佐藤はその相手が誰であるかを直感した。もう一度テニスをプレーしたいという想いも空しく、7月に旅立っていった野原さんだ。間違いない。佐藤はそう確信した。
気がつけば痛みを忘れて大きく伸び上がり、渾身の力を込めてボールを打ち出していた。最高のサーブだった。細川がリターンを返すと同時に、佐藤は背中を押された勢いに乗ってサービスラインへと前進し、鋭いボレーを放つ。細川も何とか打ち返すものの、その球威に押され反応しきれない。ラケットを離れたボールは、天井へ向かって大きな放物線を描いていく…