ついうっかり口が滑ってしまったことが契機となり、県代表として国体に出場するまでに腕を上げた父。その後も1979(昭和54)年の宮崎国体に出場するなど活躍を重ね、やがて生井さんとともに、栃木県のテニス界を引っ張る人材となっていきました。
そのような状況もあり、父は選手から指導者へと方向転換することになります。そのターニングポイントとなったのが、1980(昭和55)年に、地元栃木で開催されることになった「栃の葉国体」でした。
この大会では、地元開催の威信をかけて、あらゆる競技種目において選手力強化が図られました。もちろん、テニスも例外ではありません。この時、父・政雄は34歳。現役プレイヤーとして一時代を築き、まさに黄金期を迎えていた頃です。しかし、父の後に続く次世代が育っておらず、まだまだ全国レベルで活躍できそうな選手は見当たりませんでした。そんな時、若手の育成のための指導者として白羽の矢がたったのが、なんと父だったのです。
潔くプレーヤーから引退し、県内選手の強化コーチに就任した父は、日々寸暇を惜しんで若手の指導に当たりました。もちろん会社員ですから、仕事をないがしろにする訳には行かないのですが、父の抱える特別な事情を察してくれたのが、何事にも理解の深い田丸支店長でした。支店長は「ここまで支店の業績が上がったのも、超音波診断装置のスペシャリストである父あってこそ。今後とも会社にとって欠くことのできない貴重な人材として、仕事に支障のない範囲で勤務時間の裁量権を与えてくれたそうです。
父もそんな支店長に恩義を感じ、テニス指導に負けないくらい本業にも情熱を注ぎ、それまで以上の実績を上げたそうです。しかしおもしろくないのは同僚や後輩たちです。彼らからすれば遊び優先で仕事時間を変更しているように見えたのでしょう。とはいえ彼らもサラリーマン。人事裁量権を握る支店長に、直に抗議することなどできません。そうなると、当然ながら父が攻撃の矢面に立たされることになります。「なんであいつばかり特別扱いされるんだ!?」という反感が、直接的にも間接的にも投げつけられました。支店長は「気にしなくて良いから」と言ってくれますが、やはり父にとっては針のむしろ。いくらメンタルの強い父とはいえども、いたたまれない状況だったようです。
悩み続けた父でしたが、またもや希望の星となったのが、憧れの先輩・生井さんです。というのも生井さんは、それまで勤務していた大手精密機械メーカーを数年前に退社し、テニスコーチとして独立・再出発していたのです。父はそんな生井さんを、苦境から一歩踏み出すためのロールモデルとして捉え、自らの将来に重ね合わせました。そして「居づらくなってしまった会社を辞めて、僕もテニスコーチとして若手の指導に専念しよう。それが今の自分にかせられた天命なのだ」と感じたのでした。
しかし会社を辞めるということは、毎月の給料もなくなるということです。普通の人の場合、安定した収入を捨ててまで趣味の道を究めようとはしませんが、ここが父の凄いところでもありダメなところでもあります。
「生井さんもコーチ業で暮らしているのだから、僕だって頑張ればなんとかやっていけるだろう!」。
生まれついての超ポジティブ思考の父ですから、テニスコーチとして独立した場合のリスク評価は最小限。反対に、独立が成功する可能性への評価は最大限です。当然ながら、夢は大きく膨らみます。そして持ち前の行動力を発揮し、さっそく支店長に「退職」を申し入れたようです。
しかしさすが支店長は人生経験に富んだ人格者。辞めた後の佐藤家の生活にまで想いを巡らせてくれる方ですから、簡単には辞表を受け取りません。その一方で、父の熱意も深く理解する支店長は、父にある提案をします。
「ならばコーチの仕事が軌道に乗るまで、うちの会社と顧問契約を結んでくれないか。今後も我が支店では、超音波診断装置に関する佐藤君の専門的なアドバイスが必要だ。何かあったらすぐに支援の手を差し伸べて欲しい。そのかわり、月々決まった額の顧問料を支払らおう。奥さんや小さな子供もいる訳だし、家のローンもまだ返済が始まったばかりだろう。テニス人である前に、君は夫であり、父であり、一家の大黒柱なんだぞ。今後の生活を守ることだって君の大切な役割だ。だからせめて、この条件を飲んでほしい。それならば、退職届を受理しよう」。
(テキストは著作権により保護されています。(C)佐藤政大 小貫和洋)