第51話 分かれた運命が再びひとつに | 佐藤政大 公式サイト

近畿大学テニス部にスポーツ特待生として入部した伊藤君と、経済的な理由から大学進学を断念した僕。もう伊藤君とは、ダブルスペアを組みたくても組むことはできません。

僕は鉄筋工として働き、稼いだお金でテニスの道を続けていくことを決めました。一方で伊藤君は、恵まれた環境の中で大学コーチの指導を受けながら毎日練習に励んでいました。

伊藤君に誘われて、大学の練習に参加させてもらうこともありましたが、その度にもう手の届かないほど二人の実力の差がついてしまっているのを見せつけられました。その事実に僕は愕然(がくぜん)とするしかありません。悔しさと諦め、そして情けなさ。心が荒んでいくのを感じました。

僕だって曲がりなりにも「栃木県ナンバーワン」の国体選手です。しかし実際は、仕事に追われる日々の中、練習さえまともにできない環境に置かれていたのです。比べたくはありませんでしたが、テニスに専念できる伊藤君が羨ましくてたまりませんでした。

惨めさから練習にも身が入らず、夜な夜なパチンコやゲームセンターに入り浸ることも少なくありませんでした。昼間に働いている僕にとって、夜は練習に当てるための貴重な時間帯なのに、です。

もしかすると二人の境遇の違いを言い訳に、現実から逃げていただけなのかもしれません。僕にだってプライドがあります。負けていることを認めたくなかったのです。かつて僕より弱かった相手が、僕と並び、追い越していく。その姿が眩しくてたまらなった。

ですが、そんな僕の実力を認めてくれたのもまた伊藤君でした。どんな時でも離れていても、ことあるごとに「頑張れよ」と支えてくれたのです。「こんなに強い人間が僕を認めてくれている」。そう思えたからこそテニスへの希望を投げ出さずに頑張れた、苦しくつらい状況でも落ちるところまで落ちずに持ち堪えられたのです。それはきっと、彼のおかげです。

伊藤君は、関西学生テニス連盟の大会で優勝するなど華々しい活躍を続けていました。全日本学生テニス選手権大会、通称「インカレ」でも上位入賞し、大学卒業後は福岡の百貨店「岩田屋」の実業団チームに入団します。

1995年には「全日本テニス選手権」の一般ダブルスでベスト4入賞を果たすなど、堂々たる戦績をおさめました。

その後、伊藤君は岩田屋を退社後し、熊本に本部を置くクリーニングチェーン「ホワイト急便」に転職しました。1999年に「くまもと未来国体」の開催を控えていた熊本県から、国体強化選手として招聘(しょうへい)を受けたのです。

当時、国体は「開催都道府県が総合優勝」という伝統があったことから、テニスに限らず多くの有力選手が県外から受け入れられていました。そして伊藤君はその期待に見事応え、熊本県の総合優勝に貢献したのです。

国体が終わると、伊藤君は第二の故郷でもある福岡に戻り、輝かしい戦績を基礎に自分のテニススクールを立ち上げます。福岡を代表するアスリート経営者として脚光を浴びるようになった伊藤君は、プロスポーツ選手や実業家など華やかな人脈にも恵まれ、夢のような世界で輝かしい日々を送っていました。

まるで絵に描いたようなサクセスストーリーを歩んで伊藤君に対し、その頃の僕はレッスンコーチとして下積みを重ねていました。そのような状況でしたが、独立して自分の意思でダブルスパートナーを選べるようになった伊藤君に、僕は「二人でもう一度ダブルスを組んで『全日本テニス選手権』に出場しよう」と持ちかけます。彼とならきっと「日本一」の夢に近づけるはずだと直感したからです。ずっと戦績不振でくすぶっていた僕にとって、伊藤君は希望だったのです。

すると伊藤君は突然の申し込みにもかかわらず、僕の誘いに快く応じてくれたのです。

2003年11月、組んだ伊藤忠大・佐藤政大ペアは13年ぶりにダブルスを組み、「第78回全日本テニス選手権大会」に出場します。この大会は残念ながら1回戦敗退に終わりましたが、続く2004年と2005年は2年連続でベスト16まで勝ち上がりました。

日本ランキングも上昇し、僕はダブルス12位を獲得。

それまで僕の最高ランキングはシングルス69位でしたから、もし彼と組んでいなければ、これほど上位に入ることは一生なかったでしょう。ここまで来られたのは彼のおかげです。伊藤君と出会えたことは、僕の人生の宝物です。本当に感謝してもしきれません。

参考———————————————————————————–
https://www.tochigi-tennis.com/report/report2007.pdf
2ページ目 男子ダブルスのJOP12位の佐藤政大・伊藤忠大が出場する。

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