支店長からの支援を受けたこともあり、父はテニスの強化コーチとして全精力を傾けられるようになりました。地元開催国体での栃木県勢上位入賞を目指したのです。そこに奮起した選手たちの努力も重なり、いざ大会が開催されると、予想以上の好成績を収めることができました。父がコーチを務めた少年男子は準優勝を果たし、男女総合・女子総合もそれぞれ4位入賞を達成したのです。
しかし喜んでいたのも束の間、国体に向けた強化事業が無事成功したと同時に、父が担ってきたコーチとしても任務も終了してしまったのです。それを機に我が家は一気に現実モードに引き戻されます。この頃には妹・久美子も誕生し、家族は4人に増えていました。郊外とはいえ、緑豊かな公園に隣接した庭付きの一戸建てですから、毎月返済するローンだって決して少なくない金額です。家族にとって、お金の重要性がますます高まってた時期に、強化コーチとしての収入がなくなってしまったのです。かといって、いつまでも支店長の善意に甘えているわかにもいきません。こうなった場合、一家の大黒柱である父親が復職するか再就職先を探すのが普通ですが、しかし天性の前向き思考である我が父・政雄は違いました。こともあろうにこの難局を受けて、本格的に「テニスで飯を食っていく」決意をしてしまうのです。
前述したように、ずば抜けた行動力を持つ父が目を付けたのが、テニスコート4面を備える近所のバッティングセンターでした。そしてなんと父は、「このコートでテニススクールをやらせて欲しい」とバッティングセンターの社長に直談判を仰いだのです。それも、バッティングセンターにスクールを開校してもらい、自分がコーチとして就職するという形態ではなく、あくまで「自分がスクールを経営する」という条件だったのですから、さぞかし社長も驚いたに違いありません。何ともまあ強気の依頼というか厚かましいというか…。しかし幸いにも度量の大きい社長だったようで、格安の使用料でコートを貸してもらえることになりました。
そして1981(昭和56)年の春、ついにサトウテニススクールが開校しました。父・政雄35歳、僕は小学校3年生になったばかりの出来事でした。
とはいえ、家の経済状態は決して楽ではありません。当然ながら、できたばかりのテニススクールに生徒はいませんから、実態は破産寸前と言っても過言ではない状況だったのです。父は浮かれていましたが、母は危機的な家計を補うため、隣町にある自動車工場へ働きに出ることになりました。家族の前ではいつでも明るく振る舞い、苦しいそぶりなどまるで見せることのなかった母ですが、実情は火の車だったのでしょう。大人になってから気がついたのですが、どうやら立川の実家からも相当の額の支援を受けていたようです。また、支店長からも内緒でお金を工面してもらっていたことも、後になって知りました。しかしそのことを母は一切家族に内緒にしていたため、家計が苦しいことに父は全く気がついていません。収入が減った分、いくらかは厳しくなってきているようだが、贅沢をしなければまあ何とかやっていける、そんな認識だったようです。けれど実際は「大好きな父が大好きなテニスに専念できるように」と、金銭的な苦労を母が一人で全て背負い込んでいたのです。
そしてこの時の過大なストレスが母の健康に重大な影を落としていたことが、数年後に大問題となって僕たち家族に突きつけられることになるのです。
(テキストは著作権により保護されています。(C)佐藤政大 小貫和洋)