生徒数の激減と原因不明の呼吸困難という試練を乗り越え、なんとか立ち直りかけたのも束の間、また新たな危機がスクールを襲いました。
2011年3月11日の「東日本大震災」です。あの時ほど「廃業」の二文字が頭をよぎったことはありまさせんでした。
一番の足かせとなったのは、「計画停電」です。東京電力の設備被害や原発事故に伴う電力供給低下により、日時や地域限定で電力の供給を一時停止するもので、該当する時間帯はテニスコートの照明も消えてしまうため、社会人対象の「ナイタースクール」が実施できませんでした。収入の要である「ナイタースクール」ができなければ、いずれ会社の運転資金は底をついてしまいます。いったい計画停電がいつまで続くのか見当もつかない中、僕たちにできる対策は何もありませんでした。その時できたのは、ただただその終わりが来るのを待つことだけでした。
地震による経済的被害は他にもありました。市や町が主催するテニス教室のでの「派遣コーチ」の仕事がなくなってしまったのです。会場となる体育館やアリーナが原発事故の被災者の方々を受け入れ施設となったことで、テニス教室が開催さらなくなったためです。
「ナイタースクール」と「派遣コーチ」。あの日の地震を境に、会社の収入の柱となる二大業務を失ってしまったのです。今まで様々な危機に対処してきたが、こればかりは自分ではどうしようもありません。終わりの見えない真っ暗なトンネルの中にいるような気分でした。
そのような中で、わずかながら収入源の一つとなったのが、NPO法人「日本スポーツ振興協会」が主催する「キッズテニス教室」のサポート事業でした。「キッズテニス教室」は、テニス人口の裾野を広げることを目的に、小学校の体育館などで子供たちに遊びとしてテニスに親しんでもらうプログラムです。
子供でも扱いやすい短いラケットとやわらかいスポンジボールを使用します。ネットも低くいので、誰でも簡単にラリーが続くのが特徴です。
僕たちに課せられた役割は、栃木県でのキッズテニス教室の開催を手伝い、その普及を支援すること。そのためにはまず、会場として使用させてくれる小学校探しから始める必要がありました。
僕は無精髭を剃り、髪を整え、ジャージからスーツに着替え、開催を求める署名を携えて最寄りの小学校を尋ねました。そして校長先生に活動の趣旨を説明し、開催許可のお願いをしました。
しかし返ってきた答えは「それは教育長の決めることなので、ここでは答えられない」という言葉です。それならばと僕は、教育委員会へ出向きました。するとこちらはこちらで「それは学校長の采配です」と言うではありませんか。
いわゆる「たらい回し」です。僕は「それでは、校長先生に決めていただいて良いんですね」と確認をとった上で、再び先ほどの小学校へ伺いました。すると今度は「前例がない」と言われてしまったのです。公共機関特有の「事なかれ主義」や「保身」……といわれるものでしょうか?
これではいくら誠実に説明しても聞き入れてもらえそうにありません。仕方なくこの小学校での開催は諦めざるをえませんでした。なんだかとても悲しい気持ちになりました。
でも諦めるわけにはいきません。僕たちは別の学校での開催を模索してみることにしました。
より多くの人に相談してみたところ、クラブ員さんの中に別の小学校校長先生に伝手(つて)がある方が見つかりました。さっそくその方に仲介していただき、校長先生とお会いするため学校に足を運びました。前回のこともあったため緊張していたのですが、キッズテニス教室の趣旨を説明したところ、「子供たちのためになるなら」と快く受け入れてくれてくださったのです。何とか栃木県で最初の「キッズテニス教室」の開催にに漕ぎ着けることができました。「良い校長先生を紹介してもらえてよかった!」と、ほっと胸を撫で下ろしました。その後はこの学校での実績が評価さられ、教室の開催場所や回数も増えていきました。
「キッズテニス教室」はNPO、つまり非営利法人のプログラムの一環です。そのためこの活動から得られる収益はわずかでしたが、この教室でテニスに触れたの子供たちが、クラブのジュニアクラスに入会にしてくれるきっかけとなるなど、経営危機の中にあった僕たちにとっても希望の光に感じられたものです。
一方で、地震による施設の損壊も甚大でした。コートには亀裂や歪みが発生し、ナイター設備の照明が落下。クラブハスの壁にはひび割れが入り、水道管も破損してしまいました。室内も調度品や家具が倒壊し、そのままでは使えない状況です。あまりにも被害が大きく、自分たちでは修復できるレベルでないため、専門業者に修理や補修を依頼するほかありません。結局その修理費用で、わずかに残っていた手持ち資金もほぼ底を突いてしまいます。
「もうこの先、従業員に給料を払い続けられない」。そう考えた僕は、スタッフを集めました。恐れていた「廃業」の二文字が、ついに現実となってしまうのです。みんなどんなに悲しい顔をするだろう。どれほどのショックを受けるだろう。僕は申し訳ない気持ちでいっぱいでした。
従業員たちを前に、僕は「できるだけ早く転職先を探して欲しい」と伝えました。
まだ給与の原資があるうちに次の道を見つけてもらいたい。それがみんなにしてあげられる最後の恩返しだと考えたのです。しかしそんな心配をよそに、彼らはからは意外な応えが返ってくるではありませんか。「給料は心配しなくて大丈夫ですから、このままみんなで再起をかけましょう!」。みんなの熱い気持ちを感じ、僕は強く頭を殴られたような衝撃を受けました。
「何てことだ」恥ずかしさと情けなさ、そして感謝の気持ちが込み上がってくるのを感じました。僕は勝手に自分一人であきらめていた。そのことに気付かされたのです。本当は先頭に立って頑張らなくてはいけない立場なのに。再起できる可能性だってゼロではないに。
2年前の春、新スクールを開設した際の経営危機だって、彼らは僕を信じて諦めずについて来てくれた。そして今回も誰一人として退職を選ぶスタッフはいませんでした。
それどころか、「震災支援のチャリティーイベントをやりましょう!」と前向きな提案まで飛び出すほどです。
これに勇気づけられ、再び歩き出す気力が湧いてきました。「この先もテニスの道で彼らと共に生きていかなくては」
それには何よりまず施設の修理を優先しなくてはなりません。僕は「応急でも良いから、なんとかコートを使える状況しなくては」と、給与分にとっておいた資金を捻出し、専門業者に施設の修理を依頼しました。
しかし災震後の復興需要により作業に当たる職人や工事関係者が十分にそろいません。加えて資材の確保が難しいことも重なり、修理は着工待ちを余儀なくされました。
結局コートやクラブハウスの応急補修が終わったのは震災から1か月ほど後のこと。桜の花も散った時期でした。かろうじて施設は使える程度まで復旧しましたが、この先も収入の減少が続くことは明白です。僕はその損失を補うため、地元の銀行から借金をして給与の原資を捻出しました。コートを買い取った時の融資の返済もある中、追加融資を受けたのですから多重債務といってもよいような状況でした。しかし、これ意外に生き延びる方法は見つかりませんでした。
心の奥にズシリと重石をのせられたような暗澹たる精神状態でしたが、その頃になると計画停電もついに終わりを迎えました。
これによりナイタースクールも再開。ようやく見えた明るい兆しです。
良いニュースは他にもありました。「派遣コーチ」で教えていた生徒さんがクラブコートでの指導に切り替えてくれるなど、徐々にレッスンのコマ数が回復し始めたのです。震災から間も無く2か月、スクールでの日々は落ち着きを取り戻しつつありました。どうやら最悪の状況は脱したようです。
半年ほどすると仮設住宅も徐々に完成し、被災者の方々の入居が進みました。避難施設に転用されていた体育館なども小さなところから順に通常利用ができるようになり、徐々に自治体主催のテニス教室が再開され始めました。
翌2012年にはスクールの経営状況も回復し、ほぼ以前と変わらぬ日々が戻ってきました。長い長い冬の時代が終わり、ようやく春が巡ってきたようでした。
人生が激変した30代も、まもなく終了です。
フリーのテニスコーチだった10年前は、自分1人のことだけを考えていればよかった。だけど今は違います。スタッフとその家族の生活を預かっている責任があります。
怒涛の10年間を振り返りながら「来るべき40代に向けしっかりと前を向いて進んで行こう」。僕はあらためて心に誓ったのでした。