第38話 思いやりのさじ加減 | 佐藤政大 公式サイト

20代も半ばにかかる頃には、ようやくレッスンコーチの収入だけで生計と大会参加費を工面できるようになり、それと比例するように指導者としての実績もより確かなものへと変化していきました。しかし順風満帆だったある日、とても大きな衝撃を受ける出来事に僕は見舞われたのです。

通常、1クラス8名でレッスンを行うのですが、クラス全員のレベルが揃っていることは稀で、生徒それぞれのレベルに大なり小なりの差があることがほとんどです。

それまで父のレッスンを受けたり、アシスタントとして指導した経験から、コーチとしてのスキルにはそれなりに自信があった僕は、生徒ひとり一人のレベルに寄り添いながら、丁寧に教えることに情熱を注いでいました。

一生懸命教えることでテニスのレベルを上げてあげたい。それこそがコーチとして理想的な姿であると信じて疑わなかったのです。そのためクラスレッスンでは全体指導を基本にしつつ、細かな部分はそれぞれの生徒のレベルに応じて指導していました。それが僕の方針だったのです。

そのクラスは、おおむね中級レベルの生徒が揃っていました。しかし1人の女性だけ、全くの初心者という状態でした。ですから、彼女に対する指導時間が他の生徒と比べ長くなることは、仕方のないことだと考えていました。上達することで本人に自信がつくのはもちろん、クラス全員で練習する際も、より高度な課題に取り組めるようになるからです。

そのような想いで僕は、彼女に対してかなり熱心に指導をしました。他の生徒たちもそれを理解してくれており、クラス全体で彼女の上達を温かく見守る雰囲気に包まれていましたから、僕は安心して彼女の指導に力を注ぐことができたのです。

クラスレッスンの中で、彼女だけがうまく習得できない課題があった時のことです。
僕は全体での指導を中断し、彼女にマンツーマンで教えていたのですが、どういう訳か突然彼女が泣き出してしまいました。理由がわからない僕は「いったいどうしたんですか?」と尋ねました。
すると彼女は、「私のことはいいから、他のみんなを教えてあげてください」と涙ながらに訴えるではありませんか。
「いやいや、気にしなくても大丈夫ですよ。みんなも応援してくれているから」と慰めたのですが、結局その日は最後まで彼女が泣き止むことはありませんでした。

そしてその日を最後に、彼女がレッスンに姿を見せることはなくなってしまったのです。

きっと彼女は、僕が一生懸命になり過ぎたばかりに、足手まといになってクラスのみんなに迷惑をかけていると感じていたのでしょう。他の生徒から「なんであの子ばっかり」とやっかまれたり、「あーあ、また練習が止まっちゃったよ」と迷惑がられているのではないか、と不安がっていたのでしょう。

けれど僕は、彼女のそういった気持ちに気付いてあげられず、結果的に彼女を傷つけてしまいました。自分の思い込みで描き上げた「喜ばれる指導」を一方的に押し付けていたのです。
僕はなんて独りよがりだったのだろう。そう気づいた時、それまで信じていた自分の方針に激しく打ちのめされたのでした。

この出来事を切っ掛けに、僕はあまり指導に熱を入れすぎないよう注意を払うようになりました。気負いすぎると周りが見えなくなってしまうので、冷静さを保ちつつ適度に力を抜いて指導することが大切だとわかったのです。
そういった視点を持つことで、今まですくい取れなかった生徒たちの細かな感情にも敏感になることができました。また生徒たちもリラックスしてテニスに取り組むことができ、それまで以上に早く上達できるようになったのです。これはまさに怪我の功名と言えるでしょう。

それからもう一つ。この出来事以来、僕は今でもテニス指導以外の要素を取り入れつつ、レッスンを行うことを大切にしています。テレビやネットで話題になっていることをネタにして笑いをとったり、身体づくりや食事についてのアドバイスを織り交ぜたりなど、緩急をつけながら指導するようにしているのです。
クラスの中に上達度合いに差がある生徒がいる時は、その人の心に負担をかけないよう周囲を巻き込みながら楽しくレッスンすることや、空き時間を使って指導することを心掛けています。

もしあの時の出来事がなければ、指導者としての今の僕はなかったに違いありません。きっと、ただの「テニスがちょっと上手な人」でしかなかったでしょう。僕はこれ教訓に、テニスの習熟度や世代、性別に関係なく、どんな生徒にも対応できるコーチになることを目指すようになりました。

現在、僕のスクールには3歳から80代まで幅広い年代の生徒が所属していますが、ひとり一人に向き合うことをとても大事にしています。

僕は今でも、自分が未熟だったばかりに悲しい想いをさせてしまった彼女に、申し訳ないことをしたと深く反省しています。と同時に、深く感謝もしています。今の僕があるのは、彼女のおかげでもあるからです。

彼女にもう一度出会う機会があれば、「ごめんなさい」と「ありがとう」の二つの言葉を、きちんと掛けてあげたい思っています。

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