第37話 周回遅れ | 佐藤政大 公式サイト

テニスで食べて行くと腹を決めたのは良いものの、実際には何から始めて良いかわからずにいました。それでも卒業して1年ほど経つ頃には、少しずつですが、レッスンコーチのオファーが入るようになりました。

父のスクールでアシスタントを勤めていたことが、僕への依頼につながったのです。
僕が高校に入学した頃には、父はテニスコーチとして県内でも高く評価されるようになっており、それが僕にとっても大きな財産となっていたのです。

体育会系の指導者が多いテニス界にあって、テニス部出身ではない父の指導法は、とても斬新なものでした。
エクササイズの際にリズミカルな音楽を流したり、スポーツ医学に則った練習法を実践したりと、時代に先駆けた指導法を取り入れていました。

昔ながらのスパルタ式ではなく、生徒のモチベーションを上手に引き出すスタイルを実践していたことで、地元のテニス愛好家の間で「楽しく上達できる」と注目されたのです。
残念ながら僕に対する指導だけは、「完全なスパルタ式」でしたが……。

ともかく父の独創的な指導法に触れていたお陰で、コーチとしての僕の実力も知らぬ間に養われており、「あの佐藤コーチの息子さんなら」と、僕への評価も自然と高まったと言うわけです。父には反発してばかりしていましたが、これには感謝せずにはいられません。

とはいえ、まだまだレッスンコーチの仕事だけでは充分な収入は得られず、遠征費や参加費など試合に必要なお金を稼ぐのもやっと……という状態。
そんな姿を見て不憫に思ったのか、救いの手を差し伸べる救世主が僕のもとに現れました。サトウテニススクールの練習生で、子どもの頃から親しくしてもらっていた小林さんご夫妻です。

小林さんは大型車メーカー系の工場の構内外注業者として、トラックやダンプなどの特装を請け負う会社を営んでおり、そこで僕を雇ってくれることになったのです。それも「コーチの仕事がない日だけ」という、僕にとっては破格の好条件付きです。

まさに渡りに船とばかりに僕はその場で即決し、早速次の空き日から働き始めることになりました。
今では滅多に見かけることはなくなりましたが、当時はアートトラックやデコトラと呼ばれる派手な大型車が日本中の街道を走り回っていた時代で、その手の大型車の装飾が僕の仕事でした。

「ウロコ」と呼ばれる模様付きのステンレ板をトラックのサイズに応じてハンマーで加工したり、リレーで連続点滅させる「流れるウインカー」の取り付けたりと、慣れない作業ばかりで最初はずいぶん苦労しましたが、経験を重ねる度にコツをつかめるようになっていきました。

溶接やドリルでの穴あけ、重いインパクトレンチでのボルト留めなど危険な作業も多く、決して楽な仕事ではありませんでしたが、レッスンや試合のない日は汗だくになって働きました。

もちろん労働よりもテニスに打ち込みたいのが本音ですが、がむしゃらに働いて資金を稼ぐことこそ、その時の僕に残された「強いテニス選手になるための最短の道」だったのです。

僕は前向きに考えを切り替え、テニスへの情熱をこの仕事にぶつけることにしました。
すると、それまで難儀していた大型車用部品の重さはウエイトトレーニングとして、長時間に及ぶ作業も持久力を養うインターバルトレーニングとして捉えられるよう、意識が変化していったのです。

それに加え、現場の働きやすさにも大いに助けられました。煩わしい上下関係のないフラットな職場は、組織の一員として働くのが苦手な僕でもすんなりととけ込むことができたのです。

そのような恵まれた環境にも支えられ、鈴木さんの鉄工所では24歳くらいまで働かせてもらいました。テニス以外でこれほどひとつのことを長く続けられた経験は、それまでの人生で他にありませんでした。大学でテニス中心の生活を送っている同世代の選手たちを横目に見ながら悔しい想いもありましたが、この5年間は僕にとって掛け替えのない貴重な経験を与えてくれたのです。

その頃になると、ようやく僕はテニスコーチの収入だけで、生活費と大会の参加費用を工面できるようになりました。

父の助けを借りず、自分の力で稼いだお金で生きていく自信がついた僕は、ついにテニスに本気になりました。いえ、ようやくと言うべきかも知れません。テニスを始めてすでに20年近くの歳月が経っていたのですから……。

同世代の選手たちから置いてきぼりとなっていた僕は、遅れを挽回するために新たな目標を立てます。それは年に1度だけ開催される「全日本選手権の本戦出場」。「世界選手権出場」でないどころか、「全日本選手権優勝」ですらないのが情けなくもありますが、回り道をしてきた僕でも何とか手が届く目標を、という想いで掲げた、起死回生への第一歩でした。

経済的に恵まれた同世代の選手たちは大学に進学し、テニスに集中できる環境の中で練習を重ねています。中にはすでに全日本選手権に出場している仲間や、 プロとして活躍しているプレイヤーもいました。

そんな友人たちと比べると、自分だけが遅れを取ってしまっているようで、僕は人知れず焦り、もがいていたのです。「俺ももっと練習を重ねて、みんなに追いつかなくては……」と、もどかしい気持ちを抱えながら毎日を過ごしていました。

しかし僕はトレーニングだけでなく、コーチとして自分の時間を割く必要があります。ただそれでも、テニスのことだけを考えて生きられるよなったのは大きな進歩です。ついに僕は彼らが先行するフィールドのスタートラインにたどり着きました。

周回遅れとなった僕はそれまでのタイムラグを取り戻すべく、全力疾走に挑みますが……。

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