第9話 小さな冒険 | 佐藤政大 公式サイト

佐藤家の教育方針は、「自分のことは自分でやらせる」。理由は父が子供の頃もそうだったから、ということらしいのですが、そんなわけで放任主義というか、ほったらかし主義で育てられた僕は、小さい頃から冒険心に富んだ子供でした。

僕が幼児期に住んでいた家と、その後に転居した総合運動公園近くの家は3kmほど離れているのですが、小学校に入る頃になると昔の家のエリアまで自転車で出かけては、昔の友達に会ったり、顔なじみの店までお遣いに行ったりすることも。小学3年生くらいからは、1人で電車に乗って宇都宮の中心部にあるデパートまで遊びに行くなど、かなり行動範囲の広い子供になっていたようです。

その反面、当時の僕は妄想の世界で遊ぶという、子供っぽいところもありました。妄想の世界では、近所の総合運動公園は秘密基地で、家の目の前にあるラグビー場の地下には、巨大ロボットが格納されていることになっていました。そして僕は、そのロボットを操縦する正義のヒーローという設定です。「敵」が現れると僕はそのロボットに乗り込みます。するとラグビー場の地面が二つに割れて、僕の乗ったロボットが大空へ向けて飛び立つのです。いつも頭の中でそんな空想をしては、独りでニタニタよろこんでいました。子供の頃の僕は、大人っぽさと子供っぽさの両面が同居する、どこか不安定な少年だったようです。

ただ、どういうわけか友達づくりだけは得意だったようで、仲間を募って前述のラグビー場で毎朝のようにサッカーの練習をしていました。北関東の冬はそれなりに厳しく、朝は氷点下になることも珍しくありません。僕はいつも早起きをしては、練習のために集まってくれる友達のために熱くて甘い砂糖入りの麦茶を作ることを日課としていました。それを休憩時間に振る舞うのが大好きだったのです。みんなもその時間を楽しみしてくれていたようで、今でもサッカーよりも麦茶の方が強い思い出として残っています。この人付き合いに長けた一面は、恐らく母から受け継いだもの。自分で言うのもなんですが、フレンドリーな性格は多感な少年時代から今に至るまで、大いに僕を助けてくれたのでした。

 

母を亡くした直後の1983(昭和58)年。5年生になった僕は関東ジュニアテニスツアーに参戦し、首都圏などで行われる大会に出場していたのですが、1人でテニススクールを営む父が忙しかったことに加え、旅費の節約も兼ね、いつも1人で東京や横浜まで切符片手に電車に乗って遠征していました。

もちろん新幹線に乗る余裕はありませんから、各駅停車の普通列車を利用します。東京までの約2時間、椅子に座らず、つり革や手すりにも捉まらず、両足だけでバランスを取りながら立ち続けます。それが父の教えだからです。そして、当時読んでいたボクシングマンガの「がんばれ元気」に影響され、主人公と同じように、すれ違う電車の乗客たちの顔を見分けられるよう、じっと目を凝らして動体視力を鍛えていました。きっと「見える!見えるぞ、私にも見える!」なんてつぶやいていたに違いありません。あ、これはガンダムの台詞(セリフ)でしたっけ?

試合に向かう僕の背中には、父が買い与えてくれた登山用のリュックサック。当時、テニス少年たちの間では、肩掛けのドラムバッグがトレンドだったのですが、「両肩に荷物の重さを分散した方が肩を痛めないから」という父の哲学により使用することになったものです。そのリュックの上蓋からは、木製のラケットが2本飛び出していています。真っ黒に日焼けし、栃木訛りで話す僕は、どこからどうみても田舎から出てきた野生児。当時は少しポッチャリしていたこともあり、ジュニアの仲間達からは「クマちゃん」のニックネームで呼ばれていました。

あの頃は硬式テニスのジュニア選手といえば、官僚や一流企業の経営者など裕福な家庭の子供がほとんどでしたから、僕はかなりの異端児だったように思います。とはいえ、選手同士はそんなことは気にしませんし、育ちが良くて純真な子供たちばかりでしたから、僕をバカにしたりいじめたりするような者はいませんでした。だからこそ僕らはすぐに打ち解け合えましたし、すぐに気の置けない友人にもなりました。彼らの中には今でもテニス界で活躍している人物が少なくありません。そのような仲間達と同じ時間を共有できたことは、僕の人生にとって掛け替えのない財産です。

東京近辺で試合が連日のように開催される夏休みは、テニス至上主義の佐藤家にとって最重要シーズンであると同時に、交通費がかさんで大変な時期でもありました。そんな時に助けてくれたのも、テニスを通じて仲良くなった友人やそのご家族でした。「宇都宮から毎回通うのも大変だろうから、夏休みの間は僕の家に泊まったらいいよ」と、何の躊躇(ちゅうちょ)もなくサポートしてくれるのです。まだ遠慮など知らない子供だったこともあり、僕もその好意にありがたく甘えさせてもらいました。そして一緒にテニスの練習や試合に出かけては、充実した毎日を過ごしたのです。

都心の裕福な家庭で過ごした夏休みは、多感な年頃の少年に大きな影響を与えました。それは、今までテレビでしか見たことのないような、刺激的で魅力的な世界との遭遇です。と同時に、僕の暮らす世界と彼らの暮らす世界の間には、見えない境界があることに気づいてしまったこともまた、事実でした。それは、決して越えることのできないボーダーラインなのです。それでも、心に感じた不条理を吹き飛ばすように、僕は彼らの間で背伸びを繰り返しながら、少しずつ少しずつ成長していったのでしょう。

夏休みが終わって宇都宮に帰ると、周りから見た僕はちょっぴり大人びた少年になっていたようです。

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